昭和44年10月5日 特別奉修委員会



 今朝の御理解の「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」という御理解を、み教えを頂きまして、特に、まぁそう思われたのでしょうけれど、さきほど原さんがお届けなっておる中に、近所の方が先日も私の方へ見えて、というてお話になっておりますが。
 あの、特にその親子でありながら、もう娘さんの悪口をもう盛んにその、言われ、そして嘆かれ、悔やまれるわけですね。それを又近所の方が見えてから、もうこりゃもうしようなかがの、この世は地獄じゃからどうせ。こりゃもうちゃんとその、代々を、その(おくる?)じゃから、私達だけじゃなかけんで、又娘達もそういうふうに難儀を感ずる事じゃろうが。
 こりゃもうここから人間は逃れることは出来んという意味のことを話しておられるのを聞いてね、原さんが、本当にあの信心のある者とない者の違いというか、まぁおかげを頂いておるという事を、まぁその時も感じられたでしょうけれども、今日の御理解を頂かれて、今日のみ教えを頂かれて、えー、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」というものを、まぁしみじみ、えー、感じられたわけでございますがね。
 その事を私ただ今のご祈念の時に、原さんの言うておられたことを、ほんにこの世は、もう地獄だ、ともうあきらめきっておる人達ですね。本当にそういう人達にこういう、いわゆる信心の、神の教えというか、真の道があるのを、何とか教えてあげられる方法はなかろうかと、こう思うんですね、実際。
 自分の心の中に頂いておる信心を頂いておるという事も、いわば、その今日の御神訓を、まぁ神の教えを知り、真の道を知っておる者の有り難さということになるわけですよね、今日の御理解を、反対に(やったら?)
 そのありがたさというものの、その、が、何処に(いき?)有り難いと思い、感じるのだろうかとこういう、そしたらね、私頂きますことは、えー、例えば信心がない、あるからないからという事は、こりゃもう関わりませず、そのとにかく、誰でも一つの難儀、様々な難儀というものは持っておるんだと。
 ところ、なら信心させて頂いておる者はね、その難儀そのものが、例えば道を歩いて行くならばね、その安定感がある、あるちゅうかですね。難儀があるということの方は、かえって安定感のある生き方が出来るということ。
 もう何にもないその、というようなですね、例えば時がまぁたまにあるわけですけれどね、頼むこともなからなきゃ願う事もない、ただお礼ばっかりという時もあるけども、そういう時にはかえって信心がゆるんでるような感じですね。
 何かそこに、すがらなければおられん、祈らなければおられないと、まぁそれを信心のない人に言うと、本当に苦しいことであるという、又信心がない人が言っておるように、どうせこの世があんた地獄じゃからと。もうそれを思い果てておる人達ですね、この信心のある者は、その難儀を難儀からこの開放されようではなくてです、まぁ開放されようと思っておるかもしれませんけれども、その、難儀が過ちをふみ起こさないで済むとか。又は、まぁその思いあがらんで済むとか。
 むしろそこに、しみじみとした、いわば真の道を歩かせて頂く安定感の、が、あるという事なんですね、ですからどういう風に考えてもやはり、それぞれのもっておる難儀というものは、やはりお礼を申し上げねばおられない事が分りますですよね。それが、今の私の安定感を作っておるわけですからね。
 そういう例えば繰り返しがです、なら三十年五十年という風に、生活をこの世でさせて頂いて、初めて、その信心のある者とない者の違いというものが大きく開いてくるというのじゃないだろうかと思いますね。どうぞ。

梶原 佳行